流域治水における「遊水の用意」
流域治水は従来型の治水と大きく異なります。従来型治水が河川に集まった水をマネジメントする手法であるのに対して、流域治水は流域内のすべての場所を対象として水をマネジメント(特に治水管理)する手法です。そのために、加藤清正の治水5訓(大木土佐の治水5訓)の中で指摘していた、遊水がとても重要となります。
それでは、遊水とは一体どういう意味なのでしょうか? 遊の字義は、「辶」+「斿」すなわち、「道を行く」+「旗が揺らめく、ただよう」ということで、遊ぶとは自由に行くこととなります。ありていに言えば遊とは、決められていないことをすること、遊びということになります(同じ言葉で説明したらだめですね)。
水を遊ばせるとはどういう意味になるでしょう。「遊」+「水」なので、水を自由にさせること、すなわち降った雨を速やかに水路などで導き河川などの空間に閉じ込めることなく、様々な場所で自由にさせることと解釈できます。降雨を閉じ込めずに、自然の摂理に基づいて水が浸透するところは浸透させ、氾濫するところは氾濫させるということになるわけです。遊ぶ=自由=自然の摂理、自然の摂理という考え方はキーポイントになります。
清正の治水5訓をもう一度振り返ってみます。第4項目目に『一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水はあふれて大災害を被る。』とあります。すなわち、いろいろなところで水を遊ばせることなく、川の水を早く流すことばかり考えていると大災害となるとの指摘ですね。まさに、令和2年の球磨川洪水で見られた盆地内支流であふれず、下流が大災害を被ったという構図ですね。遊水の「用意」、うまい言葉遣いですね。「用意」という言葉に、遊水させるのだけれど大きな被害は出さないという意志が感じられますね。
というように、流域治水の基本思想は自然の摂理に基づき水を浸透、貯留、氾濫させ、かつ被害はなるだけ起こさないように意を配るという「遊水の用意」ということになると考えている次第です。
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